医療現場のリアルを追求する「病院型」キャンパスの全容

イギリスのヨークシャー州に位置するシェフィールド・ハラム大学(Sheffield Hallam University)のカレッジエイト・キャンパスには、一歩足を踏み入れると大学であることを忘れてしまうほど精巧な「模擬病棟」が存在します。
この施設は、医療・ヘルスケアを志す学生たちのために作られたもので、英国国民保健サービス(NHS)の基準を完全に満たした看板や設備が整えられています。
空気感、器具の配置、さらには特有の「病院の匂い」までもが再現されており、学生はキャンパスにいながらにして臨床現場の緊張感を体験することができます。
病棟内には実際に機能するトイレやスルー(汚物処理室)があり、身体機能の補助が必要な患者の移動訓練や、排泄物の適切な処理方法を学ぶことが可能です。
ケイ(Kay)上級講師によれば、単なる模型の展示ではなく「実際に稼働する」ことが教育上の鍵であり、非常用コールボタンさえも大学の警備チームに直結しているほどの徹底ぶりです。
これにより、学生は単なる知識の習得を超え、現場での一挙手一投足が持つ重みを肌で感じることになります。
- NHS仕様のサインと設備による高い没入感
- 臨床シミュレーションチームによる運用管理
- 匂いや音を含む五感を通じた環境再現
- 実際に機能する医療廃棄物処理システム
多様性と包摂性を体現する「生身に近い」マネキンたち

この病棟で最も驚くべきは、ベッドに横たわる「患者」たちの多様性です。
例えば、ダウン症を持つ少女をモデルにしたマネキンのグウェン(Gwen)は、単なる視覚的な再現にとどまりません。
ダウン症特有の解剖学的特徴である「挿管の難しさ」を再現するため、気道の内部構造までもが忠実に設計されています。
グウェンには個別の「ヘルスパスポート」や使い込まれたぬいぐるみも添えられており、学生は彼女を「プラスチックの塊」としてではなく、固有の背景を持つ「人間」として扱うことを学びます。
また、肥満患者をモデルとしたバブス(Babs)というマネキンは、約160kg以上の体重を想定した体型をしています。
彼女のようなバリアトリック(Bariatric / 肥満治療)患者のケアでは、皮膚のひだの間に生じる感染症のチェックなど、標準的な体型の患者とは異なる注意点が必要です。
こうした多様な患者モデルの導入は、特定の属性を持つ人々が医療現場で受ける不平等を解消し、学生がどのような患者に対しても適切なコミュニケーションとケアを提供できるよう準備するために不可欠です。
- 1グウェンダウン症の解剖学的・心理的特性を再現したモデル
- 2バブス肥満患者の特殊なケアや移送を学ぶためのモデル
- 3アイア(Aiah)予期せぬタイミングで手渡される乳幼児モデル
ムラージュ技術が支える「不快な真実」と臨床現場の難しさ

シミュレーションの質を影で支えているのが、ソフィー(Sophie)をはじめとする技術チームによるムラージュ(Moulage)技法です。
これは、ワセリンや着色料などを用いて、リアルな傷跡、壊死(ネクロシス)、分泌物などを作り出す特殊メイク技術です。
バブスの足の指に施された「糖尿病性足潰瘍」の再現は、あまりのリアルさにトム・スコットさえも言葉を失うほどでした。
医療現場では、シーツをめくった瞬間に壊死した部位が脱落するような衝撃的な場面に遭遇することもあり、学生は事前にこうした「視覚的な衝撃」を経験しておく必要があります。
さらに、嗅覚のシミュレーションも行われます。
例えば、消化管出血の兆候であるメレナ(Melena)特有の鉄分を含んだような悪臭を再現することで、学生は教科書の説明ではなく、感覚として緊急事態を察知する能力を養います。
こうした「グロテスク」とも形容される再現は、決して衝撃を与えることが目的ではなく、実際の現場で冷静に判断を下すための「心理的なワクチン」として機能しているのです。
| 項目 | 再現される要素 | 教育的な目的 |
|---|---|---|
| 視覚 | 壊死、流血、手術痕 | 衝撃への耐性と病状の正確な把握 |
| 嗅覚 | 特有の疾患臭、排泄物 | 緊急事態の早期発見と診断能力 |
| 聴覚 | 呼吸音、叫び、アラーム | 騒音下での優先順位判断 |
現場での『最悪のシナリオ』を安全な環境で経験させることが、将来の患者の命を救うことにつながります
生死を分けるトラウマ訓練と「出血する」マネキンの衝撃

動画のハイライトは、突如として始まる「トラウマ(外傷)シミュレーション」です。
トム・スコットが病棟のタオルをめくると、そこには切断され、骨が露出した脚から鮮血が噴き出すマネキンが横たわっていました。
これは止血帯(Tourniquet / ターニケット)の使用方法を学ぶための高度な訓練です。
ポンプで送り出される模擬血液は、人間が数分で失血死しうる致死的な速度で流れ続け、参加者に強烈なプレッシャーを与えます。
トムは冷静さを欠き、止血帯の装着に苦戦しました。
しかし、この「失敗」こそがシミュレーションの価値です。
現実の救急現場では、他の患者の叫び声や鳴り止まないアラームの中で、こうした処置を完遂しなければなりません。
ジェイ(Jay)などの専門家が見守る中、学生たちは自らの無力さを知り、技術を磨く必要性を痛感します。
医療におけるシミュレーションとは、単なる「練習」ではなく、感情と技術を極限まで同期させるための「実戦」なのです。
- 噴出する血液による時間的プレッシャーの再現
- 止血帯を用いた迅速な救命処置の訓練
- 失敗が許される環境でのクリティカルな経験の蓄積
- 視覚的なショックを克服するためのメンタル・レジリエンス強化
現代のニーズに応えるトランスジェンダー医療の教育

最後に紹介されたのは、トランスジェンダーの患者をモデルにしたクリス(Chris)です。
彼はホルモン療法(テストステロン投与)を受けている設定で、乳房切除術(トップサージェリー)の痕や、ホルモン剤の影響による身体的特徴が忠実に再現されています。
ソフィーは、海外での手術後に合併症を起こして帰国したというシナリオに基づき、傷口の感染や炎症をムラージュで追加しました。
現代の医療現場では、LGBTQ+の人々に対する理解と、特有の身体的・心理的ニーズに対応する能力が求められています。
クリスのようなモデルを用いることで、学生は予断を持たずに患者に接し、合併症や身体的変化を正確に評価するトレーニングを行います。
多様な人々の存在を前提としたこの教育姿勢こそが、未来の医療をより安全で、誰にでも開かれたものにするための確かな一歩と言えるでしょう。
