2025年のノーベル物理学賞は、物理学の歴史における大きな転換点を象徴する内容となりました。
受賞対象となったのは「電気回路における巨視的なトンネル効果とエネルギー量子化の発見」です。
これは、通常は原子や電子といったミクロの世界でしか観測されない量子力学的な性質が、目に見えるサイズの大きなシステムでも現れることを実証した画期的な研究です。
量子力学誕生から100周年という記念すべき年に、この基礎研究が評価されたことには深い意味があります。
2024年はAI分野への授与で世間を驚かせましたが、今年はまさに「ザ・物理学」と呼ぶべき正統派の理論と実験が選ばれました。
現代物理学の柱である量子力学には、未だに多くの驚きが隠されていることを改めて世界に知らしめたのです。
解説のキーワードとなる一つ目は「トンネル効果」です。
これは、粒子が本来超えることのできないエネルギーの壁を、確率的にすり抜けてしまう現象を指します。
古典物理学の感覚では、壁を乗り越えるエネルギーがなければ向こう側へは行けません。
しかし、量子の世界では壁を「トンネル」のように通り抜けてしまうことが起こるのです。
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このトンネル効果は、太陽の内部で起きている核融合反応や、不安定な原子核が崩壊するアルファ崩壊など、自然界の至る所で重要な役割を果たしています。
しかし、これらはあくまでミクロな粒子の話であり、我々が目にするような大きな物体では起こり得ないと考えられてきました。
今回の受賞研究は、その境界線に挑んだのです。

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二つ目のキーワードは「エネルギー量子化」です。
これは、物体が持つエネルギーが連続的ではなく、飛び飛びの値(離散的な値)しか取れない状態を指します。
例えば、バネを伸ばす時、古典的な世界では好きな位置で止めることができます。
しかし量子力学の世界では、許される「段差」のようなエネルギーレベルが決まっているのです。
受賞者の一人であるデボレ氏は、クラーク氏の研究グループに参加し、後にマルテニス氏と共に歴史的な実験を行いました。
1984年から1985年にかけて行われたその実験では、約1cm四方のチップ上に作られた超電導回路が使用されました。
このサイズは、人間の手のひらで扱えるほど巨大なシステムであることを意味します。
実験では「ジョセフソン接合」という特殊な構造を持つ超電導回路が用いられました。
この回路内では数十億個もの「クーパー対」と呼ばれる電子のペアが、まるで一つの巨大な粒子のように振る舞います。
この「人工原子」とも呼べる状態を作り出すことで、巨大なシステムにおける量子性の観測を可能にしたのです。
彼らはこの回路を精密に制御し、電圧がゼロの状態から有限の電圧状態へと移行するプロセスを解析しました。
その結果、この状態変化が古典的な物理法則では説明できず、量子的なトンネル効果によって引き起こされていることを統計的に証明したのです。
これこそが「巨視的量子トンネル効果」と呼ばれる現象です。

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さらに、マイクロ波を用いた実験によって、この巨大な回路が持つエネルギーが特定の飛び飛びの値しか取らないことも実証されました。
つまり、目に見えるサイズの電気回路において「エネルギー量子化」が起きていることを突き止めたのです。
この成果は、物理学界に計り知れない衝撃を与えました。
この研究の素晴らしい点は、基礎科学としての価値に留まらず、現代の最先端技術に応用されている点にあります。
特に「超電導量子ビット」の実現には、この巨視的な量子状態の制御技術が欠かせません。
量子コンピュータの心臓部を支える理論的・実験的な礎は、まさにこの3名によって築かれたと言っても過言ではないでしょう。
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かつて「シュレディンガーの猫」という思考実験で語られた、マクロな世界での量子的な重ね合わせ状態。
今回の受賞研究は、その奇妙な世界が単なる空想ではなく、我々の技術で制御可能な現実であることを示しました。
温度を極限まで下げ、精密な回路設計を施すことで、巨大なシステムも量子の掟に従い始めるのです。
ノーベル賞の選考理由は、特定の応用技術(量子コンピュータなど)への貢献というよりも、量子力学の適用範囲を劇的に広げた基礎的功績に重点が置かれています。
しかし、その恩恵は間違いなく次世代のコンピューティング技術へと繋がっています。
物理学の深淵を覗き見るような、非常にロマンあふれる受賞内容であったと言えるでしょう。


